信念のために死ねるか

■人生のレイヤー

人生は寝て食べて糞してセックスして、そのループの中で病気や事故などのイベントが起きて終焉を迎える。

さらには社会人としての儀礼的なイベントをこなし、人間関係を構築、破壊していくというレイヤーもある。

人はその中で無数の想起をし、悩み、問題を解決していく。

ベースには自分が生きることの意味や必然性を持つが、いつしかそれは生活に流されて忘れるか、忙しさを理由に考えなくなるか、目標を持ってそれに向かうことで考えなくなっていく。

自分の存在意義は、結局限られた人生の中でどういう人間であったか、それに集約される。

だから、今、この瞬間瞬間にどういう人間で在ろうとしているのか、どう考えようとしていて、どう結論を導き、行動したかに、人生自体が現れる。

■今ここに生きる

「今どう在るか」、それに人生の意味は集約される。

サムライは自分がサムライとして在ることができないのなら、アイデンティティが通せないなら、切腹を選んだ。

自分は何者なのか? それを自分で規定し、それに合わなければ死を選んだ。

それが結局、どう在るかということ。

自分はどういう存在なのか? それを自分で決め、そのとおりに生きる。

それで自分がどう在るかをコントロールすることができる。

しかし、それは思ったよりも強い信念がいる。

サムライとしての自分を突き通すために、ちゃんと死ぬことができるのか? ということ。

■信念のために死ねるか

ほとんどの人は、諦め、妥協し、誰かに合わせて生きることを嫌に思いながら、それを真剣に考えているふうにするが、実際は深く考えもせず、流され、世の中にはどうにもならないこともあると、どうにか自分を言いくるめて、実際は面倒なことから逃げ、よこしまな欲求だけを抱えて生きている。

僕も含めて。

どんなに嫌がられようと、どんなに恥をかこうと、どんなに問題になろうと、どんなに家族に懇願されようと、どんなに孤独になろうと、どんなに煙たがられようと、どんなに仕事にならなくなろうと、どんなに生活に困ろうと、信念を突き通すことに命をかけること。

それができる人間が、突出していくのだろう。

自分を信じられるとは、そういうことなのだろう。

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