どうも、企業コンサルしたりゲームデザインをしたりプログラマをしたりしている新田です。
最近は投資家に事業プランを持っていったりしています。
今日は価値観の崩壊した世界というテーマです。
それはどこの世界か? というと、現代の日本のちょっと先、というイメージです。
モノの時代の崩壊
昭和や平成の時代は、「モノ」が信じられていました。
昭和の時代は「白物家電、三種の神器」という言葉がありました。
白物家電というのは、昭和の時代は白黒テレビ、冷蔵庫、炊飯器、でしたし、平成の時代はカラーテレビ、車、クーラーだったわけです。
それらを揃えられると豊かさを満たした生活になる、という社会通念がありました。
サラリーマンは、その三種の神器を買うことを目標にせっせと働いて、確かにそれらによって生活は豊かになったわけです。
それはある種の、「国民の希望」でした。
そうした生活を目標にすることにより、生きる推進力を得ていたわけです。
中流の生活をすること、豊かになることが目標だったのです。
「モノ」を買うことが目標の時代だったのです。
ゲームも、その「モノ」のひとつでした。
しかし、欲求とはエスカレートするもの。
どんなに「モノ」を揃えようと、人々が満足することはありません。
より便利に、より豊かに。
欲求は果てしなくさらに上を目指します。
1990年代、バブルがはじけ、所得水準が下がり、国民は節制した生活を余儀なくされました。
豊かさの時代の終焉です。
消費しきれない豊かさ
お金をジャブジャブ使えない世の中になってしまったわけですが、インターネットやガラケーが普及し、ちょっとしたお金を払うだけで、暇つぶしには事欠かなくなりました。
この時期に生まれた世代は、生まれながらに豊かで、物理的に生きること自体には特に苦労しない世の中になっていました。
そしてスマホが登場。Googleはウェブサービスをほぼ無料で提供し、メール、マップ、通話など「タダ」が当たり前の時代に突入していきます。
物質的な豊かさは最高潮です。
さらにはグローバルなサブスクリプションサービスが各社で始まり、音楽、漫画、映画、書籍、ゲームなど、ほぼタダみたいな金額で、一生かけても消費しきれないコンテンツが提供され始めました。
既存のコンテンツの豊かさは、これも最高潮です。
なぜなら、これ以上はもうないと言ってもいいくらいの物量が提供されているからです。
昭和や平成の時代は、提供されるコンテンツがテレビや雑誌からなど限定的で、世の中の価値観というものはおよそ統一されていました。
そういう意味では、コンテンツを提供する側も競争しやすかったですし、どう戦えば世の中からの反響を取れるかがわかりやすかったのです。
価値観のない時代のエンタメ
しかしこの令和の時代、コンテンツは溢れんばかりに提供されています。
人々は、めいめい自分の好きなようにコンテンツを検索し、好きなものを見つけ、それに浸っています。
逆にたくさんありすぎて、ひとつのものに集中できず、つまみつまみいいとこどりで消費するようにもなってきています。
Youtubeで映画のいいシーンだけつまんで見るなんてのは、その最たるものじゃないでしょうか。
非常に短絡的な消費です。
そしてすぐに消費のクライマックスがくるので、無思考とも言えます。
かつての消費と比べると、大きく様変わりしました。
・部分消費
・短時間(3~10分)
・スキマ時間に消費
・エンドレス
・多様な価値観にフィット
・自分に会うものだけしか見ない
困ったのは、コンテンツ提供者です。
いったいこの価値観が統一されず、多様になっている時代に、なにに合わせてコンテンツを作ればいいのか?
ガワの時代
僕がエンタメ業界に従事している身として思うのは、
「ガワの時代」
になったと思います。
というのも、観客、プレイヤーである「人」が喜ぶものを提供するのがクリエイターですが、その「人」は紐解かれ、脳内快楽物質を出すフローというのはすでに解明されていて、ハリウッド映画のように単純なエンタメを大量生産し、売上を上げる方法というのはすでに確立されているわけです。
なので、そういった仕事についている人は、エンタメの普遍的方法論は「人」を元に確定していて、あとはその時代その時代のトレンドを読むか作るかして、新規性という「ガワ」を作るベルトコンベアー工場で自分は働いている、ということに薄々気づき始めている。
叡智の結集は人々を安定はさせたけど、目指す場所という「希望」を奪ってしまった。
生活をオートメーション化して楽にしたはいいが、価値を作る作業を人々から奪い、空虚で無意味な世界を作り出してしまった。
自分がオートメーション化の一部であることでも楽しい、というのであれば、全然いいのですが、僕なんかはありもしない「意味」を求めるし、自分らしさというユニークさ、特別さを目指すことで、生きていることの意味を求めてしまう。
それなくしては、中空に漂うチリと同じであり、意志の意味がないと思うわけです。
エンタメの本質
「ガワ」を作ることに意味はないと言いました。
もちろん、まだまだ「ガワ」を作るだけでもエンタメ的成功というのは難しいのですが、「似たような」ものを量産することに終始し、さらに失敗してしまうというのは、無意味中の無意味ではないかと、僕なんかは思います。
どうせ作るならヒットさせたいし、自分にとって、世の中にとって意味のあるものを作りたい。
そして「世の中に一撃加えてやったぜ」という爪痕を残したいわけです。
もしあなたもそう思うなら僕の同志なので、ぜひメルマガに登録してもらって(登録している人は直接会って話をするようになって)今後も連絡を取り合う仲になりたいと思うわけですが(笑)、要は、ヒットとか成功を乗り越えたあとに、自分が表現したいものの「本質」を、自分自身で追求しながら、それを世に問うていくというのが、クリエイターの意味ある姿なのかなと思います。
「世界はこうなんだよ」という立場で上から目線でものを言うより、「世界をこうしたいんだ」という未来を作る立場で在りえたらと、そう思う次第です。
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