100ワニ現象で思ったこと

■100ワニの誤算

電通が絡んでいたということで若干炎上している「100日後に死ぬワニ」案件ですが、ふと思ったことを書きます。

作者によると最初から電通が絡んでいたわけではなくて、途中から声をかけられたということで、炎上はそれほど大きくないようですが、「世界観が壊された」とか「作者は電通の手先だった」みたいな意見がちらほら見られ、嫌儲の国らしいなと思いました。

個人的には、作者もこの資本主義社会に生きているわけで、安心して創作活動を続けるには継続的な収入は必要ですし、そもそも作品というのは「余裕があるからいいものができる」とも言われていますから、作者にお金がどんどん入ることはいいことだと思うわけです。

よくなかったのは、自殺者が出たりしてブラック企業と言われている電通のイメージが合わさったことで、作品のイメージが「壊れた」ということなんだと思います。

【電通過労死から4年】高橋まつりさん母が今も後悔する「娘との最後の電話」 (1/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット) https://dot.asahi.com/dot/2019122600042.html

■イメージの時代

作品独自の世界観だけで通せることができれば、別に電通でもよかったと思うわけですが、電通は過去によくない話が出ていて、そのイメージを払拭できていないまま作品の終焉とともに出てきてしまったものだから、興に水を指す結果となってしまった。

「いきものがかり」の歌とともにワニの歴史を綴った動画は、とてもよかったと思うわけですが、もう完全に電通のイメージの悪さがよくなかった。

いい作品なのにブラック企業が絡んだのかと。

単純に言うとそういうことだと思います。

企業体も人もイメージがあって、あの企業はいい、あの企業は悪い、みたいな、単純な好き嫌い、善悪の尺度で企業や人は図られる。

渡邉美樹社長の「和民」なんかはブラック企業として叩かれましたが、少し前に会社の体質を改善することに取り組んで、離職率の低下でホワイト企業化したとニュースになりました。

ワタミが「今やホワイト」 離職率の低下に驚きの声 : J-CASTニュース https://www.j-cast.com/2018/12/27346880.html?p=all

このイメージ戦略というのは昔からあるわけですが、噂が瞬時に伝播するネット時代になってから、ますます重要性が増していると思います。

■リアルを認識しはじめた人たち

しかしながら、単純に「清いイメージ」を謳えばいいのかと言うと、そうではない。

ここが今回の記事の核心になるのですが、

「人々は作り物ではないリアルなイメージを求めている」

のです。

「ラーメンハゲ」じゃないですが、人は情報によって印象を持ち、行動します。

「ラーメン再遊記」より

SNSの時代になって、人々は企業が与えるイメージが作り物だということを明確に認識するようになりました。

なぜならネットには現実世界の清濁併せ呑むような情報が行き渡り、人々のいい部分も悪い部分も全部可視化して見れるようになったからです。

よいイメージは理想ではあるけれど、現実はこうだ、ということの情報量があまりにも多く、よくいえば人々の頭はこれまでの企業のイメージ戦略による洗脳から脱出し、より「リアルな現実」に生きるようになったのです。

もちろん、ネットはフェイクニュースなどの問題や、主張したい欲求が強いひとだけが目立つという問題をはらんでいますが、「嘘を嘘と見抜く」リテラシーも同時に育ってきています。

■影響力の武器

イメージの時代と同時に、影響力の時代にもなりました。

より支持される人、注目を呼ぶ人にフォロアーがつき、投げ銭を投げ、サロンにお金を払い、その言葉を重要視する。

そういう時代になってきています。

そして、人々はそうした影響力を持つ人が「嘘偽りない」ことを言っているかどうか、常に監視しています。

ただ正しい意見を人々は求めているのではなく、どちらが正しいかわからないような、判断に困るような情報にどういう意見を持っているのかを見ています。

そして自分の判断材料にしているわけです。

僕が思うには、ネットには膨大な情報が常に流れおり、それが人々の判断能力を奪うような時期がありました。

が、徐々にですが、その情報が「この世界」のリアルな輪郭を浮かび上がらせてきている、そう思っています。

つまり「世界とはどういうところなのか?」「社会とはどういうものなのか?」「人とはなんなのか?」ということが、常に流動する情報によって、明らかになってきているということです。

人とは移ろうものであり、情報に流され、影響され、自分が信じたいものしか信じず、影響力のあるものを信じ、反発し、いくつかのコミューンに属し、そこに自分の居場所を見つける。

そうしてどうにか、自分を保とうとする。

自分を肯定できなければこの世界に存在できないからです。

■ネットが日常の虚構を暴く

そして、こんな時代だからこそ、彷徨う人々にはリーダーが必要なのだと思います。

彼らが安堵する場所は、まだまだこの世界には少なすぎる。

僕が好きな映画に「ファイト・クラブ」がありますが、その中で扇動者であるタイラー・ダーデンがこう言います。

「広告が俺達に車や服を買わせようとする。
そして俺達は嫌いな仕事をして、それを買う努力をする。

俺たちは目的も居場所も無い歴史の中継地点にいる。
第一次世界大戦もなければ、世界大恐慌もない。 

しかし、頭の中は常にゴチャゴチャ戦争中で、実際の生活はカツカツ、大恐慌並みに苦しい。

俺たちは、アメリカンドリームを映し出すテレビを観て育った。
いつかはこうなれると教えられた。

しかし、俺たちはゆっくりと、そうではないと学ぶ。
それに対して今俺たちは怒っているんだ」

映画「ファイト・クラブ」より

これは今の世の中にも当てはまります。

テレビの中は虚構であり、広告は僕らの生活を画一的にしようとする罠であり、企業が映し出すイメージは現実には椅子取り競争で勝ち残った一握りの人にしか与えられない。

ネットはそれを暴く役割を担った。

電通と博報堂の虚構がバレたわけです。

僕らは、ネットによってリアルを知り、ここからまた新しい理想を見いださなければならなくなった。

コンテンツが無限に溢れ、無限に暇つぶしができる世界の中で、それよりも楽しく情熱を叩き込める「なにか」を探さないといけなくなった。

モノやカネが満足する生活を与えてくれないことが、平成の終わりで明らかになってしまった。

ということで、ネット・ネイティブの僕らは、自分たちでコミュニティを作り、希望の旗を掲げ、そこに集い、「希望」を見出すために、今もネットをサーフィンしまくっているというわけなのです。

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