僕の失敗とゲーム制作遍歴

どうも、新田です。

僕は今でこそ個人で起業し4億円稼ぎ、8年のセミリタイアをしたりして悠々自適に暮らしているわけですが、最初から順風満帆だったわけではありません。

挫折、絶望、苦難の嵐だったのです。

人生とはなんなのか? そんなことを考えながら、あなたと同じように生き迷っていました。

ビジネスでチート的な知識を手に入れるまでは・・・。

ゲーム漬け

 

小学校からゲームセンターに入り浸っていた。

そのころ近くにあったゲーセンはヤクザみたいなパンチパーマの男が経営していたり、ゲーセンの前でうんこ座りをしていた中学生が「おい、金よこせよ」とカツアゲをしているのが日常だった。

背が生まれつき高かったのと、負けん気は強かったので、カツアゲられることはなかった。

ある日僕は、親父が仲の良かった電気店で、パソコンを見せてもらった。

パソコンではゲームが動いていた。

ゲーセンで遊んでいるゲームがこのパソコンで遊べる!

しかも、ゲーセンで1回50円で10分で終わるようなゲームでなく、1年かけても終わらないような変わったゲームが遊べるらしい。

「ただでいくらでもゲームができるのか!」

僕の目はキラキラと輝き始めた。そう知ってから、電気店の店頭のパソコンに、雑誌に乗っているプログラムを打ち込むのが日常になった。

店のオヤジは僕が店頭のパソコンに触るのを嫌がらず、逆にニコニコと眺め、たまにアメをくれたりした。

めっちゃいいオヤジだった。

小学校3年生だったが、自宅から自転車で20分もかかる電気店に毎日通い詰めた。

本を見ながらプログラムを打ち込んでは、バグを取る日々だった。

しかしある日、電気店は閉店していた。

別の日に行っても、開いていない。

毎日店の前に行くが、店は閉まったままだった。

父親に聞くと、実はその電気店の店主が車で人を轢いてしまい、店は閉店、もう二度と開くことはないと知らされた。

暴力の中の世界

 

電気店は潰れたが、近くに大手の電器店「みどりや」ができ、そこで店頭デモでパソコンが触れたので、僕はやはり通い詰めてパソコンを触っていた。

中学生になってから買ってもらったファミコンのゲームに衝撃を受け、そのころからゲーム業界に憧れた。

これしか面白い仕事はないと、ゲーム業界しか就職するつもりはなかった。

部活はコンピュータ部があれば入りたかったがなく、絵画部に入っていた。

中学校は暴力で溢れていた。

午後になると上級生がピロティなどでタイマンを始めたり、同級生も廊下でいじめまがいのケンカを始めたりしていた。

チャリンコに乗っていて知らない二人組に「おい、乗せてくれよ」と言われ、友達が乗せたのでしぶしぶ乗せて走っていたら公園のあたりで「有り金出せよ」と脅され、ケンカになったこともある。

逆にそういったことがきっかけで体を鍛える方向に興味を持ち、走り込んだり、筋トレをしたりすることが多かった。

クラスの中では運動部と不良が幅をきかせ、文化部は「おとなしい連中」でくくられ、明らかなスクールカーストがあった。

しかし僕はそういう幅をきかせる運動部の虫が好かなかった。

「なんで運動部ってだけで、幅をきかせてるんだ?」

僕はゲーム好きのインドアで、陰キャだったが、ことあるごとに反目し、殴り合いのケンカになった。

そうなると、からかいの対象からは外れた。

暴力とモラトリアム

 

高校は商業高校に入った。

今更だがもうちょっと高望みすれば進学校にも進めた成績だったが、担任が保守的だったので、高校はアンパイを選ぶ結果になったと思う。

自分にはなにを選べばいいのか、判断がついてなかった。

しかしこの高校にはコンピュータ部があり、「トロン」などの簡単なゲームを作ると、大人気だった。

友達同士が「トロン」で対戦し、一喜一憂しているのを見て、「これは楽しいぞ」とワクワクしていた。

ゲームプログラムをコピーさせてくれとクラスの連中からよく言われた。

作ったゲームはまたたくまにクラス中に広がり、コンピュータ部はゲーセンになっていた。

そのうち先生から「新田はゲームを作って遊んでいる」と目をつけられ、持っていたフロッピーディスクをフォーマットされたりした。

だが人気のゲームはすでに拡散され、なにも問題はなかった。

高校もバイオレンスで溢れていたが、入学式の当日、先生が自己紹介で態度の悪い生徒にイスをぶん投げるような学校だったので、支配ポジションは学校側にあった。

ちょっとふざけた態度を取ると平気で強烈な平手打ちが飛んできて張り倒される。そういう時代だった。

生徒たちは先生の前で震え上がっていた。

高校の途中で親父がパソコンを買ってくれて、パソコンのスキルはこのころからみるみると上がっていった。

高校卒業後、ゲーム業界が目標だったのでコンピュータの専門学校に入った。

コンピュータの資格を取るために入ったようなものだったが、その国家資格を取る以外は、ものすごくモラトリアムを感じていた。

同じクラスの誰しもが、ただその日暮らしの享楽に溺れていると感じた。

僕は授業をサボり、家に引きこもって、ただただゲームをしたり、音楽を聞いたり、意味のない毎日をすごしていた。

それを見かねた専門学校の担任から呼び出され、「君は光るところがあるのだから」と学校に呼び戻した。

それでどうにか単位を取り、学校を卒業した。

僕はなぜ、こんなにも腐っていたのか?

哲学とエンタテインメントの関係

 

歳は18,19。

自分と社会、自分と世界の関係を考えるに、わからないことだらけだった。

いったいなんのために今後生きるのか?

この世はなぜこうも混沌としているのか?

生きるとはなんなのか?

人生とはなんなのか?

このころから哲学書、宗教書、科学書、歴史、心理学など、書店にあるあらゆる分野の学術書を読み漁るようになった。

そのせいかこの世界や社会への疑問は薄らぎ、結局のところ自分を肉体的、精神的に成長させる道がベストだと気づいた。

逆に言うとそれをサボると社会に隠蔽された弱肉強食の世界が顔を見せ、動物的な世界に落ちてしまい、生き残れないのだと思うようになった。

これまでに存在していたあらゆる概念は人が積み上げてきたものであり、もともとはなにもないところから始まった。

殺人や盗みはなぜいけないのか? なぜ戦争のときは人を殺しても許されるのか?

愛がなかなか成就しないのはその概念がそもそもキリスト教が作り出したものであり、目標とすべき理想でしかないからではないのか?

世界を構築している概念は、砂上の楼閣のようなもので、秩序のないところでは蜃気楼のように消えてしまう。

そして世界は、無秩序の中に人間の都合のいいように秩序を作り、保っているに過ぎない。

だから世界は鵜呑みにしてはいけないものであり、状況によって秩序は現れたり消えたりする。

誰も見ていないところではルールなど関係ないようなものだ。

誰からも信用されなければ、悪人に仕立て上げられてもなかなか逃れられない。

世界はそんな中でできあがっている。

安定は仮初めのものでしかない。

世の中の常識や社会のルール、エンタメは、素晴らしい世の中だと思わせるためのハリボテにすぎない。

どんな関係もフラットに眺め、判断しなくてはならない。

永遠はなく、変化だけがある。

哲学は非情な世界を浮き彫りにするものだった。

だが、僕はそれを越え、ほんとうの素晴らしい世界とはなんなのかを知ることになるのだが、それはまだ先のことになる。

絶望の就職活動

 

田舎には娯楽がなく、近所のビデオ屋でありとあらゆるジャンルのビデオを借り、見まくっていた。

「フルメタル・ジャケット」などの戦争映画や「ロボコップ」などのクライムバイオレンスが好きになったのはこのころだった。

“Thank you for your co-operation”

中高がバイオレンス世界だったのもあるが、生と死のギリギリの世界に、人は生きることを渇望するということ、そこに人は生きる理由を見出すのだと感じていた。

専門学校は卒業を次年に控え、就職活動が始まった。

バブルが弾けて、数年後の1990年頃のことだった。

「就職氷河期」と言われる時代だった。

ゲーム業界は倍率が高く、ポートフォリオがあるわけでもなく、大手の会社は東京に2社、大阪に1社行き、面接に落ちた。

親が面接のための旅費がかかるとしぶり、4社目は自分から行くのをやめた。

「自分にはもっとスキルがいる。武器がないと望むところには行けない」

そう思い、ゲーセンでアルバイトをしつつ、パソコンでゲームを作り始めた。

ゲーセンのアルバイトは仕事がほとんどなく、主に読書の毎日だった。

ゼロの自分をイチにする

 

本格的なゲーム制作は、最初はアセンブラだった。

資料がまったくなく、「Oh!X」などのパソコン雑誌のバックナンバーを大量に注文し、それを紐解いてゲームを作った。

アセンブラは非常に面倒な言語だった。

最初は、ただキーボードの矢印キーを押すと、画面に表示された「玉」が上下左右に動くだけのプログラムを作った。

「こんなところからのスタートとは」と不安だった。

それがひと月後には、キャラクタが表示され、敵が出現して撃って破壊できる横スクロールシューティングゲームになっていた。

見た目、すでにそれっぽいゲームになっていた。

ゲーセンでは閉店後にゲームのディップスイッチを操作し、メンテナンスモードでキャラクタの配色の割り振り、アニメーションの数、格納方法などを見て、ゲーム制作の参考にした。

ゲーセンでは店員であることを活かして、ゲーム関係の同人誌を作ったりしていた。

アーケードゲーム業界は非常に盛り上がっていた時期で、ゲームファンであるお客との交流は盛んになった。

ゲームサークルを作り、ゲーム仲間を増やしていったころは楽しかった。

ゲームは結局のところ継続的な話題であり、人と人との媒体でしかなかった。

なぜならゲームも楽しいが、ゲームでつながった人間関係のほうが楽しかったからだ。

人は人とのつながり、関係、親しみ、そういったものが最も楽しい。

それは人が共生や性差の中での関係性の生き物であり、人が感じる喜びや恐怖は、その関係性の中で起こるからだ。

ゲームはその感情が起こるシミュレーションでしかない。

しかしその関係をつむぐものを作ることが、楽しくてしょうがないのだ。

当時はパソコン雑誌である「ベーシックマガジン」で、全国のゲームセンターでのハイスコアランキングが掲載されていて、プロゲーマーの出す異常なスコアの話題が尽きなかった。

別の県や東京に遠征し、実際の彼らのプレイを見たり対戦したり、交流を持ったりした。

最後のモラトリアム

 

しかし逆に開発はというと、秋田は東北の田舎ということもあり、まわりにはゲーム制作どころかプログラムをしている人すらいなかった。

ひとりでドット絵のグラフィックを描き、音楽を作り、プログラムをしていた。

人に任せられたのは音楽の編曲くらいだった。

その横スクロールシューティングは数年かけてグラフィックの総入れ替えを3回ほど繰り返した。

そうして、徐々に人に見せても恥ずかしくないような出来になっていった。

自分でもまあまあ納得のいく出来になった。

それはゲーム開発スキルの基礎を作る、最後のモラトリアム期間の終了を意味していた。

ようやく完成したゲームを手に、就職活動を再開した。

ゲームは認められ、小さなソフトハウスに就職することができた。

ゲーム業界に入る前は、社会とは自分のような社会人初心者よりももっと上昇志向の人がたくさんいて、プログラミングもスキルの高い人が多く、きっとゲームのコードの中には宝物のようなアルゴリズムやコード規則が溢れているのに違いない、と思っていた。

しかし、ゲーム業界は思っていたようなところではなかった。

吹き溜まり

 

ゲーム業界に入って最初にしたのはエロゲーのデバグだった。

ゲームに高い理想を持ってゲーム業界に入ったので、正直エロゲーのデバグなどやりたくなかったが、これも下積みだと思った。

そのソフトハウスはできたてで、ゲーム専門学校の研修の学生をタダで使い、ゲーム制作にあてるなどしていた。

しかし高校生に毛の生えたようなスキルしかない人が多く、さらにできる生徒はみんな大手に青田刈りされていたので、ポートフォリオになるようなスキルがない人が多かった。

しかし聞くとソフトハウスは役員レベルではできる人がいるが、社員レベルではそんな感じの人を使ってどうにかゲームを作っているらしかった。

「業界でもこんなレベルなのか。俺のほうがよほど詳しいじゃないか」と正直思った。

プログラミングはC言語かと思ったが、全部の処理を簡易化した独自スクリプトで組むという作業内容だった。

一般性がなく、しかも複雑なことをしようとすると冗長な処理の列を組まないといけないようなスクリプトであった。

誰でもプログラミングをちょっと覚えればできる、というようなスクリプトであったわけだが、スキルを磨くという点ではトレードオフになっていた。

結局スクリプトのベースプログラムを書き換えつつ、スクリプトは要所要所で使うといった仕事内容にして、スキルを成長させるバランスを考えつつ仕事をしていた。

しかし正直、スキルアップどころではなかった。

新しい技術やアルゴリズムの習得などというレベルではなかった。

自分の今のスキルで、できるところを精一杯こなしてリリース版をどうにか完成させる、その毎日だった。

人が足りなすぎるのに企画の規模はそれなりに大きく、スタート時点から突貫工事のような仕事が多かった。

質よりもとにかく期限に間に合わせろ、というのが至上命題だった。

毎日が徹夜作業で、開発室は不夜城だった。

給料は手取り20万で休みが半年以上なく、クライアントのプロデューサーと夜中になじりあいをしたこともあった。

部屋中に怒号が響いていた。

しかし責任追及をしている暇などなく、「物事を解決する」、つまり間に合わせる、それだけが正義だった。

気持ちはわかるが、愚痴ろうが文句を言おうが、なにも進みはしない。

開発費は全体が決まっており、遅れればそれだけ会社から引かれていく。

遅れが延びれは延びるほど会社は傾く。

潰れればいくら賠償金を請求されようと払えない。

結局は、だましだまし開発を完了させるしかない。

給料はどんなに働いても上がることがないし、徹夜して無理をしたところでできないものはできない。

効率が悪くなるだけ、体を壊すだけ。

自分がほんとうに作りたいものを作っているという話でもない。

これを支えるのは結局は仕事人としてプライドであって、プロとして提示された時間内に間に合わせるということでしかなかった。

そういった「質はどうあれ間に合わせるプロ意識」が、みんなの中で醸成されていっていた。

そういったプロ意識が果たして世の中に認められるのだろうか?

自分の中にある理想のゲームにつながるのか?

というと、それは完全に違っていた。

下積みとして社会の渋さ、中小企業の悲哀を経験しているに過ぎなかった。

ただ、この経験がのちのち「あのときと比べればまだマシ」と、くじけずに済むものになったのは間違いない。

コスティキャンとの邂逅

 

そもそも「自分のゲームを作り、ヒットさせたい」という理想を持っていた自分は、家に帰ってからが本業になっていた。

ゲームデザインを研究し、面白いとはどういうことなのか、ノートに書き留めていっていた。

このノートは中学のときから書き始めていた。

どういうゲームなのかをノートいっぱいに絵付きで説明し、こういうところが面白い、という内容を詰めていっていた。

自分に衝撃を与えた作品にどういう要素があったのか、それを紐解き、どうすればそれを自分の手で実現できるのか? それを固めていった時期だった。

ノートに書き留めるのはテキストファイルに変わり、心理学やゲームデザインの資料に関するデータはどんどん積み重なっていった。

ゲームデザインは徐々にパーツ構成とフロー(流れ)に分かれていった。

このころに出会ったのが、海外のゲームデザイナーの論文、「コスティキャンのゲーム論」であった。

これには衝撃を受けた。

コスティキャンのゲーム論
http://www.n2gdl.net/topics/topic004/index.htm

それまで、ゲームデザインについてはロクな資料がなかったが、はじめて方法論と言えるべき小論に出会ったからだ。

完全にまとまった形ではなかったものの、ゲームデザインのキーになる概念、キーワードがまとめられ、ゲームデザイナーが考えるべきコアになる概念が形成されようとしていた。

およそ、どんな分野であれ、大事なキーワードはマクロで考えれば10個以下であり、ミクロのテクニック的なことはすべてそのマクロなキーワードから派生する。

つまりその10個以下の大事な概念、キーワードを覚えてしまえば、その組み合わせで大抵のデザインに応用が効くようになる。

どんなものでも人が使うものは人間工学的なデザインからは離れられない。

ゲームデザインでもそれは同じで、マーケティング、セールス、コピーライティングなどのビジネススキルも、結局は根っこは同じなのである。

デザインの普遍性は、コスティキャンが提示した方向性をヒントに、すぐに押さえることができた。

人間の普遍性は、哲学でも聖書でもコーランでも説かれている。

自分流のゲームデザインの方法論はここにきて収束に向かい始めた。

あとは、時代性における流れ、つまり「トレンド」という勢いのある流れに乗って普遍性のある作品を送り出すという、波乗りにも似たようなことが必要だとわかった。

そしてこれは、新しい市場が勃興し、市場の世間への浸透度が15%を超えたとき、つまり市場ライフサイクルでいう「導入期」を超えたあたりで発生するということもわかった。

チャンスは市場の導入期を見極められるかにかかっている。

起業のきっかけ

 

ゲーム業界で、どうにか自分を売り出すチャンスを伺っていたが、プレイステーションが出た頃からゲーム業界は徐々に自然淘汰が進み、大手だけが幅をきかせるようになっていた。

つまりソフトハウスにしてみれば一発当てて会社を大きくするというチャンスはすでに失われていたのである。

コンシューマゲーム業界は徐々に成熟期に入っていた。

自分はといえば、フリーランスになり会社を渡り歩いていた。

ソニーの「ゲームやろうぜ」という資金調達の場があり、仲間と一緒に申し込んだものの、最終的な10組に入る直前で落ちたりもした。

他のフリーランスと一緒に組んでみたものの馬が合わず、ケンカしてやめたりしていた。

仲違いしたショックで、石神井公園で呆然としていたこともある。

ゲームへの夢に向かいたいだけなのに、どうでもいい人間関係やお金のことで翻弄される。

心底ムカついていた。

でも、愚痴ろうが文句を言おうが、ベストなのは結局仕事を前にすすめること、片付けることだ。

どうしてもつらいなら途中でやめたり逃げたりしてもいいが、結局はまた前に進むべく歩き始めるしかない。

そこに戻ってきざるを得ないのが人生だ。

何度も何度もそこに立ち戻り、やるしかない。

そう気づいて、家に戻り、同僚に電話をかけ、次の仕事を見つけた。

そうしているうち、セガへの出向話に乗ったり、バンプレストやコナミの仕事をしてメインプログラマ、メインプランナーをやるようになった。

ゲーム業界はすでにブランドを確立した大手だけが生き残り、その下に運良くついた下請け会社がなんとか生き延びているという格好だった。

仕事はスキルも上がってきて、中間管理職も任されるようになって順調といえば順調だった。

しかしこのまま大手の会社に寄生しているだけでは、「自分のゲーム」を作ることができない。

ヒットを作ることなど夢のまた夢だ。

そういうモヤモヤした気分のまま、手段を探していた。

ビジネスとしてのゲーム業界での起業も考えていたが、自分で会社を起こすにはとにかく資金が必要だと思っていた。

そこでふと本屋で見つけたのが、ロバート・キヨサキの「金持ち父さん 貧乏父さん」だった。

この本には、それまでなんとなく刷り込まれて抱いていた「お金」についての価値観を壊すようなことが書かれていた。

この資本主義社会では、「お金」を作らなければ夢を叶えることができない。

坊さんにでもならなければ、「お金」と人生は切っても切り離せないのである。

だから、夢があるならお金と向き合うことを避けては生きていけないのである。

金持ち父さんはあらゆるビジネスの基礎を教えてくれたが、この本の中でいちばん大事な概念なのは、「資産」だった。

「資産」が金持ちになる一番基礎になる概念であり、これさえ作れれば収入は青天井になる。

金を作ることができれば生活は自由になり、自分が本当にしたいことだけに打ち込むことができる。

金持ち父さんによれば、資産とは自分のポケットにお金を入れ続けてくれるものであり、具体的に言えば、権利収入、家賃収入、本やCDの印税、ビジネスオーナーとしての収入とのことだった。

金持ち父さんは特に「不動産を買え」ととにかくプッシュしていた。

不動産を買う金は今はない。

頭金なしで不動産を買うテクニックが紹介された本もあったが、どう動いていいかわからなかった。

しかし結局はこの「資産」を作らずして、自由にゲームを作ることはできないと思った。

お金を自動的に生み出してくれるもの。

それを作ることが目標のひとつに加わった。

ゼロを1にした月

 

不動産を買うのは無理だったので、資産を作るための手段を探していた。

そこで見つけたのが、ロバート・アレンの「億万長者入門」という、いかにもな本だった。

その監修はマーケッターの今ではビジネス界の第一人者である神田昌典氏で、日本にダイレクト・レスポンス・マーケティングというマーケティング方法を広めた人だった。

この神田氏が立役者となり、日本には「起業ブーム」が起こっていた。

ビジネス本「金持ち父さん 貧乏父さん」のヒット、有効なマーケティング方法をアメリカから輸入し、これをやれば会社がもうかる、誰でも90日以内に稼げると喧伝して有名になった神田昌典氏、そしてそれに乗って本田健氏、ジェームス・スキナー氏などの自己啓発も同時に日本で流行り、西暦2000年前後は日本で大きなビジネス潮流が生まれていた。

誰もが「金持ち」という言葉に憧れ、自由な時間とセレブの暮らしをモチベーションにガツガツとビジネスに取り組んでいた。

「億万長者入門」に関連してロバート・アレンの「実践的オンラインマネー獲得法」という本も買い、その一節を読んで、

「これなら今の自分でもできる。これならすぐに資産を作り出せる」

と衝撃を受けた。

本には、ある分野のノウハウを3~5ページ書き、便箋に入れ、それを1つ800円で売っていた男の話があった。

ノウハウは100種類ほど用意して、雑誌の3行広告などで広告をしていた。

そのノウハウは3つセットで買うと割引になる。

そうして、その男は月に100万円ほどの収益を得て、毎月悠々自適な暮らしをしているとあった。

「この売っているノウハウをゲーム制作のノウハウにすればいいのではないか? それなら自分でもすぐに販売できる」

そう思い、すぐに行動を始めた。

インターネットのプロバイダを契約するとついてくるウェブスペースに自分のホームページを作り、ときどき日記をアップロードしていたのだが、そこで販売することにした。

最初のノウハウは、会社から帰ってからの2時間と土日を使い、一ヶ月でまとめた。htmlでデザインし、記事をその中にまとめ、zipで圧縮したファイルにした。

「これが売れるのだろうか?」という不安はあった。

「お金を稼ぐ」ことに対する社会通念は悪く、稼ぐやつは悪いやつだ、金持ちは悪いやつだ、という印象が、世の中には蔓延していたことも、販売を始める抵抗になった。

しかし、お金を稼がなければ食っていけない世の中で、お金を稼ぐのは悪いこと、というのも矛盾した話だし、アメリカでは起業して失敗しても、よくやった、よく挑戦した、という文化があるらしい。

日記へのレスで、「発売されたら買います!」という声ももらえていた。

日本では水戸黄門やらのテレビドラマ、ワイドショーやらで金によって悪いやつが生まれた、金絡みの殺人事件が起きた、などとテレビによる印象操作が大きく、昔の清貧の思想が引き継がれていた。

そして自分が思ったのは、このままではいけないということだった。

今までと同じことをしていたのでは、人生はいつのまにか終りを迎えてしまう。

生活になんらかの変化をもたらさなければ、夢は夢で終わってしまう。

それは嫌だった。

世の中の評判などクソくらえだと思った。

一度しかない人生で、したいことをしないままくたばるのはゴメンだった。

人は一度死ねば二度と生まれることはない。

少なくとも今の自分は永遠に失われる。

気の長い年月が流れ、宇宙が収縮してこの世自体がなくなっても、自分はもう二度とこの世界に生まれ出ることはない。



この名前、この眼の前に広がる景色、生まれ持ったこの五感は、今だけなのだ。

そしてそれは徐々に失われていっている。

寿命はどんどん迫ってきている。

それなのに「ほかの人がしていないから」と、自分の可能性を諦めていいのか?

人にどう思われるかを気にして行動しないのはただの負け犬、腰抜けでしかない。

小さなことにこだわってなどいられない。

恥も外聞も、他人からの眼も、死んでしまえばどうでもいいことだ。

やらなかったことだけが、死ぬ直前に後悔として残る。

そして販売ページをアップロードするボタンを僕は押した。

データは3秒もしないうちにアップロードされた。

アップ直後は、当然ながらなにも起こらない。

次の日朝起きると、購入フォームから送られた「購入されました」のメールが1通届いていた。

初めて、ビジネスをしての1500円の収入だった。

初月はその1500円だけの売上で終わった。

1が100になる

 

ロバート・アレンの本には、ノウハウを100種類用意したとあったので、自分も販売ページにアップするノウハウは100種類を目標にした。

しかし、おかしなことが起こり始めた。

2つ目を発売したその月、売上が5万円を突破したのである。

3つ目を発売した月は20万円を越えた。

セットで買うと割引になるコースも用意した。

そして4つ目で、月商が50万円を越えた。

売上は毎月前後したが、非常に安定的だった。

会社からの給料に加えて副収入が50万円を突破したわけだから、月の収入は80~100万円ほどになり、生活には大きな余裕ができた。

貯金も貯まる一方だった。

途中で、メールマガジン発行スタンドの「まぐまぐ」で、メールマガジンを発行するようにした。

これはゲーム制作やゲームデザインに興味があり、ノウハウを購入してくれる見込み客となってくれる人たちを集める施策である。

メールマガジンに登録してくれれば、新しいノウハウを販売したとき、いつでも一斉にメールで連絡が取れるというしくみだ。

その後、ゲーム会社への通勤はやめることにし、この「ネットビジネス」に集中することにした。

メルマガは同時に「ビジネス系」も発行し始めた。

市場としてゲーム制作系はニッチであり小さく、ビジネス系はそれよりも大きく、大きな額の収益が出せるという理由だった。

ビジネスを加速し、ゲーム制作で食べていく環境を整えつつあった。

月商が2000万円を超える

 

ビジネス系では、最初アフィリエイトのツールなどを販売して、月商がすぐに200万円を突破した。

さすがに納税の額が大きくなり始め、税金対策として会社を設立した。

しかし、ツール制作は骨が折れ、メルマガの執筆やマーケティングのためのサイト制作など、時間が足りなくなるようになった。

このままでは自転車操業になるのが目に見えていた。

そこで、とある交流会で知り合った同じネットビジネス系の人と組んでやることにした。

自分はプログラムができるのでソフトウェアを作り、パートナーのその人がマーケティングをするという役割分担だった。

その人とは何回も新作ツールを販売し、ツールは1回でだいたい500万円の利益を上げることができた。

さらに別の人とジョイントベンチャーし、ある人とのジョイントでは複数の人がそのノウハウをアフィリエイトしてくれて「祭り」状態になったおかげで、月商だけで2000万円を超える月が出たこともあった。

毎日、メーラーを開くと注文依頼メールが「ドバーーーーッ」と届き、日に100万円を超える日もあった。

まさに毎日が「777状態」で、ものすごい額のお金が勝手に入ってきていた。

ゲーム制作は、「資産」となる無料のFLASHゲームサイトの制作を、システムサイト開発会社(今で言うウェブサービス開発会社)に頼んだ。

海外で「Congregate」という無料ゲーム紹介サイトが大流行し、日本でも「ふりーむ」という無料ゲーム紹介サイトが流行っていて、安定的な売上をあげているようだった。

それを真似て、日本一の無料ゲームサイトを目指して立ち上げを狙った。

目玉のFLASHゲームとして、ダンジョン探索ゲーム「ダンジョンアディクター」、面クリア型対戦ゲーム「アーチャーズ」、タワーディフェンスの亜流「ファイアボール」も、同時に制作を進めた。

これらのゲームは完成度も高く、非常に評判がよかった。

今、FLASHはウェブ上でプレイできない状態になってしまったが、ソースはあるのでhtml5での復活を狙っている。

しかし、150万円かけてサイトを制作したはいいものの、デザインまで制作会社は見てくれず、それを自分で組み立てようと思いつつも、時間だけが過ぎていくだけだった。

そのうち、無料ゲームサイトのブームは終わり、ガラケーのソーシャルゲームへと投資機運は高まっていった。

無料ゲームサイトの立ち上げは失敗に終わってしまったのである。

投資資金は、まだまだ足りない状況だった。

ネットビジネスは、さらなる安定が必要だった。


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自分を高める施策

 

ビジネス系を始めたことで、起業仲間がどんどん増えていった。

ネットが稼げると聞いて、怪しげな連中も増えていった。

詐欺を働く連中もちらほら噂を聞くようになったのもこのころだった。

起業仲間の中には、六本木ヒルズの居住棟に引っ越したり、ミッドタウンのど真ん中に住んでいるやつも現れ始めた。

ヒルズの居住棟に遊びに行くと、夜の景色はまるで展望台の景色だった。

こんな景色の部屋に女性を連れてきてロマンティックな雰囲気で高い酒でも飲まそうもんなら、一発で落ちるだろうなと思った。

僕が役員として参加していた会社も成長し、年商が20億円になっていた。

社員旅行に毎年誘われ、モルジブ、マレーシア、オーストラリアのケアンズなどに10日ほど旅行した。

毎朝毎晩コース料理で、現地の特色を生かした素晴らしい料理が出てきていた。

僕自身もビジネスが好調のときに結婚し、沖縄のブセナやバリ島などに旅行した。

南国リゾートはいきまくった。

今思えばビジネスブームの最盛期だったと思う。

ビジネスの成功の鍵は、マーケティング施策だった。

GoogleのPPC広告(ペイパークリック広告:クリックごとに支払う広告)を使えば、自動的に集客ができ、安定的に利益が生まれるとの話を聞き、PPC広告に乗り出すことにした。

そんなとき、起業仲間のひとりジヌベンさんが、自己投資と言って3万円もするCDセットを買っていた。

ロバート・キヨサキ氏の日本講演を実現したジェームス・スキナー氏のCDだった。彼のCDのひとつを講演会で無料でもらい、その人にCDの紹介サイトを共有してお互いに検討していたときだった。

彼はいきなり購入してしまったのだ。

3万円のCDなど普通はありえない。

3000円がCDの相場だった。

しかしビジネス系の内容ということで、ジヌベンさんは思い切った自己投資をし、3万円をそれに払ったのである。

およそ、お金なんてものは死んだらあの世に持っていけないものだから、自己投資したほうがいい、それが一番大きなリターンをもたらす、という言葉がある。

それに従い、自分もそのCDを購入した。

そこには、別世界があった。

ビジネスと自己啓発はセットだと言われるが、やる気に溢れ、諦めない精神力を手に入れるための方法がそこにはあった。

ビジネスと自己啓発がセットなのは、ビジネスはとにかく努力と根性が必要で、それを淡々とこなすために、強い自己を自己啓発で作る、という考えがあるからだ。

 

世の中には自己啓発を危ぶむ声もあるが、たいていの人は自分に自信がなく、自信のつけかたすらわからない。

僕は割と自分に自信があるほうだが、それでも非常に役立った。

だから僕は自己啓発を受けてみたいという人には好意的だし、自分が知っている「本物」を薦めている。

僕は自己啓発で絶対に諦めない精神が身についたと思うし、コミュニケーションへの苦手意識が完全に取り払われた。

リスクテイクの意識も非常に高まった。

例えば、普通の人なら怪我の可能性のある事自体から逃げてしまうが、山登りをするなら指の1、2本はなくす覚悟をしないといけない。

今の僕であれば、たとえ指が1、2本なくなっても、自分が挑戦した証だと受け入れられる。

人生、チャレンジするのなら指の1、2本くらいはなくす覚悟がないといけない。

リスクテイクとは、わかりやすく言うと面倒を受け入れる意識だ。

面倒を恐れていたら人生でなにかを成すことなんてできやしない。

 

CDは具体的には、主にNLP(神経言語プログラミング)という技術を使い、自分を理想の自分になれるよう、自己プログラミングするというものだった。

「パターン認識」、「違いをもたらす違い」など、今までに聞いたことがない、エッジの効いた自分を作り上げる言葉がそこにはあった。

そのほかにも、心理学でいうインカンテーション、自分を表す言葉を繰り返して自分に刷り込む方法など、科学的に自分を変える方法が、CD全体で語られていた。

その後CDをなめるように聞き、月々3150円のCD講座も申し込み、さらには3泊4日で15万円の「成功の9ステップ」の講義も申し込んだ。

そのバックには7泊8日で100万円もする講義もあり、世界一のマーケッターであるジェイ・エイブラハム、わずか一ヶ月で0から1億円を作り出したビジネスマン、ピーター・セージなど、一流の講演家の講義も含んだ内容ということで、それにも申し込むに至った。

この自己啓発の講義で得た経験は凄まじいものがあった。

自分の根っこにある、諦めずに淡々と、ポジティブにビジネスをこなしていく姿勢は、間違いなくここで作られた。

この講義で知り合った英語のパートナーとジョイントし、PPC広告をはじめ、年商は8000万円を越え、自分の稼いだ額は会社設立早々1億円を超えることになった。

その後、この英語のビジネスは会員制の形式、今で言うサブスクリプションも開始し、安定期に入った。

これが、2008年ころのことだった。

このPPC広告でのビジネスは2年以上続いた。

ネットビジネス暗黒時代への突入

 

2010年から2018年までは、それまでの資産でセミリタイア状態に入り、新しいビジネスを模索した期間だった。

PPC広告の審査が厳しくなり、ネットビジネス関係の広告はほぼ審査に通らなくなった。

稼げるという流れの中で、悪徳系の一派が生まれ、市場を荒らした。

「ネットビジネスは悪い連中がやるもの」という社会通念が形成され、おそらくは団塊世代が中心であろう「嫌儲主義」が2ちゃんねるに巻き起こった。

巷のネットビジネスはボロボロになり、PPC広告では「実態がある」ことが求められ始めた。

大手の基準には逆らえず、ネットビジネスはセミナー中心になり、勢い、少人数がターゲットになって、「高額塾」が流行った。

少人数しか相手にできないのであれば、価格を上げるしか存続していく道がなかったからである。

これは今でも、その流れが生きている。

 

「実態がある」ということは、セミナー講師ができ、できれば顔を出してビジネスをしていて、セミナールームなどを使ってビジネスができるということだ。

それはネットの利便性を大きく損なった、時代に逆行するような流れだった。

実際は楽天のダイエットサプリなどのページも、ネットビジネスと同じような煽り、長文1ページを使っている。

しかし、信用や評判ということに、Googleなどの大手は非常に慎重にならざるを得ない。信用こそが、世の中のビジネスを支配しているものだからだ。

ネットビジネスの評判は地に落ちていた。

だからGoogleはネットビジネスを潰す流れに動いた。

この流れは自然な流れだったと言うしかない。

僕はゲームアプリも普通のアプリも、それなりに作っていたが、こちらも「ヒット」を掴むための最終段階に入ったという様相だった。

セミリタイア期間の最中、僕は仙人のようにゲームデザインに磨きをかけ、ビジネスの本質を掘り下げ、「結局は人である」とフォーカスを定めた。

人をいかに掘り下げ、理解するか・・・これはゲームデザインでもビジネスでも同じ。

朝から晩まで考え続け、テストアプリを作り、テストコピーを作り、ブレットを並べ替え、実践、実践、実践・・・。

結局セミリタイアとはいっても、自分が好きなことに集中することが一番楽しいので、それを掘り下げるという「宝探し」をする毎日だった。

そしてトライアル・アンド・エラーで実践する段階に入っている。

数をこなして有効打を探っている。

 

ゲームアプリは、すでにレッドオーシャンである。

つまりあまりに数が出過ぎであり、競合が多すぎるということだ。

もう、単なる「新作」ということだけでは誰も見向きもしない。

「売るためのマーケティング」が、アプリにも必要になってきている。

では、どういったマーケティングが必要になるのか?

それは、「売れる経路」を押さえることにほかならない。

「売れる経路」を把握し、そこで集客していくことが、今後のアプリ制作で生き残っていく鍵だ。

投資家の出現

 

ここ最近僕は投資家相手のビジネスが多い。

投資家に頼まれてコンテンツを作ったり、投資案件を提案し、投資してもらったりしている。

合わせて、コンサル事業もしている。

投資家の会社にプロジェクトマネジメント部門、マーケティング部門などを作り、会社の安定化を担っている。

しかし、投資家といっても人である。

大金をかけてビジネスをしている人にほかならない。

シード投資を受けることが多いが、2018年は投資家が税務調査に入られ、2億円の追徴課税を受け、僕の会社への未払いが発生した。

もろに火の粉をかぶった格好になってしまった。

税金の未払いは破産では消えない。

投資家は多額の税金という借金を抱え、姿をくらましてしまった。

僕はアプリ制作で抱えていたスタッフに対して、借金を背負う形になった。

今は巻き返しを図っているところである。

すでに完成間近で、リリース直前のアプリがいくつもある。

また、日本をゲーム大国に巻き返すためのプランも投資家に提案中だ。

こんなところでグズグズしている場合じゃない。

ゲームアプリで天下を取るのが僕の昔からの夢。

夢は叶えるためにある。

ぜひ、応援してほしい!

あなたの励ましの声だけでも、大きな力になっている(ほんとに!)。

ネットビジネスの終焉

 

「ネットビジネス」は2000年ころからはじまり、2010年ころにピークを迎えた。

僕は2000年ころ、いいアンテナを持った人が海外のネットビジネスが稼げるということを聞きつけ、それを始めた人たちが出始めた頃に、独自でそれを始めたタイプだった。

2020年になっても「ネット上で稼ぐ」ことを謳い文句に、ネットビジネスは続いているが、それまでのネットビジネスはアングラ風だったのに比べ、Youtubeの「好きなことで生きていく」のキャッチコピーからYoutuberが出たことにより、ネットで稼ぐことはすでにライトで当たり前のものになった。

サロン運営、noteやココナラ、Voicyなど、ネットで稼ぐためのサービスも多く出現し、SNSを中心にして信用経済の導入期が始まっている。

しかし、ネットで稼ぐことがコモディティ化したことで、「実際に稼げる人」というのはごく一部になってしまった。

よくいう話だが、「一般人がその話題を始めたらもう終わり」というやつだ。

ネットビジネスは、もうすでに終わっているのである。

ネットビジネスもかつてのゲーム業界と同じように、大手だけが生き残り、そこにぶら下がっている受託だけがなんとか食いつないでいる、そういう状態になっている。

稼げるのは「名前が売れているやつ」か、「名前を売る方法を知っているやつ」だけである。

ここからは、市場ライフサイクルに従えば、導入期に来る「新しい波」に乗るしかない。

「新しい波」、それはSNS+オンラインビジネスだ。

ゲーム業界も、ネットビジネス業界も、今は似たような状況だ。

ゲーム業界は、コンシューマ業界はすでに終わり。

スマホゲームアプリ業界は、成熟期に入っていると見ている。

次の波が現れるのは、成熟期だ。

ソシャゲは各社が赤字であり、新しい波に乗らなければならない。

そう、ちょうど今、5Gがくると言われている今だ。

このテクノロジーの転換期に、新しい波が訪れる。

ネットビジネス業界は、「煽り系」はプロダクトロンチも廃れてきて、すでに終わり。

SNSビジネス業界は、信用経済の流れにあり、導入期だ。

SNSビジネスが、新しい波であると見て間違いない。

ここで利益を上げるにはどうしたらいいか?

好きなことで生きていくには、どうしたらいいか?

ファン必須の、新しい時代が来ている。

そのへんは、グローバルに話すと問題のあることも多いので、クローズドなメルマガ等で語っていきたいと思っている。

なので、ぜひメルマガに登録しておいて欲しい。

9 COMMENTS

通りすがり

お世話になっております。
資産構築 最短距離セミナー
について、購入手続きを進めようと、クレジットカードの情報を入力したのですが、その後「このページは動作していません」と出て購入に進めることができません。
こちら、どうすればよろしいでしょうか。

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なぜ人は「稼ぐ」ことを避けたいのか? 僕が泥縄でビジネスを始めたきっかけ | 好きなことで生きていく!N2LABO公式ページ へ返信する コメントをキャンセル

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