どうも、新田です。
今日は、ゲームを作るきっかけになった出来事をお話ししたいと思います。
当時、僕は小学生でしたが、ゲームに非常にはまっており、近所のゲームセンターに通っていました。
その頃、ゲームセンターといえば非常に暗くて物音がすごく、不良のたまり場と言われ、完全にアングラの場でした。
学校からもゲームセンターは目をつけられており、先生が直接ゲームセンターに補導しに来るくらいの監視状態でした。
それでも僕はゲームセンターに入り浸っていました。
その頃、新しいものといえばゲームしかなかったので、インベーダー以後くらいの時期からゲームセンターに入り浸っていました。
ゲームセンター自体は中学生になっても通い続けていましたが、ゲームが2ビットや4ビットの時代を超えて、8ビットの時代も超え、技術力が上がり、16ビットの非常に美麗なゲームがたくさん出るようになりました。
それで、ナムコやコナミのゲームを見て非常に衝撃を受けたのを覚えています。
まず、友達同士でゼビウスの隠れキャラにはまっていました。
その後も、ドルアーガ、リブルラブル、そしてカプコンのゲームにも隠れキャラのようなものがたくさん出るようになったのを覚えています。
その隠れキャラや隠しアイテムに非常にはまったんですね。
僕のゲーム体験の衝撃というのはまずその隠れキャラから始まりました。
ナムコはその後、隠れキャラのブームの最終的なゲームとしてパックランドを出していました。
直後にファミコンが発売され、任天堂の最初のゲームであったスーパーマリオブラザーズは、そのアーケードゲームの隠れキャラブームの流れに乗って、任天堂流の隠れキャラや隠し部屋など、隠し要素がたくさんあるゲームだったのです。
僕はそのブームが非常に好きで、隠し要素のあるゲームにめちゃくちゃはまっていました。
ある意味その隠し要素というのは、初めて、ブームが現実に反映されている「文脈」だったのです。
ゼビウスのあとにバルガスあり。
パックランドのあとにスーパーマリオあり。
世の中が文脈によってできていると初めて感じた現象でした。
その後も、隠れキャラはテグザーや悪魔城ドラキュラなどにも現れていましたし、任天堂のその後のゲームであるゼルダの伝説やメトロイドなどにも登場しました。
今思うに、その隠れキャラというのは、ゲームのメインとなる遊びのサブ要素だったわけです。
ただ、任天堂がその隠されたものを見つけ出さないと先に進めないように隠しをゲームのメインに組み込んだために、隠しがゲームの全面に押し出されることになったのです。
隠れキャラを見つけないといけないシステムになったのは、ゼルダの伝説からです。
隠れているものを暴き出すという面白さは僕の中で非常に長く続きました。
それは1つのゲームの中でというより、ゲームのブーム全体で起こっていたムーブメントであり、隠れキャラのあるゲームを好んで買っていた気がします。
「隠しのあるゲームを作りたい」
それはその後の僕のゲーム作りに対する大きなモチベーションでした。
その隠れキャラブームを終わらせたのがドラゴンクエストでした。
ドラゴンクエストは当時パソコンゲームで主流であったRPGを初めてファミコンに移植したものでした。
ドラゴンクエストはウィザードリーとウルティマを組み合わせたゲームでした。
ファミコン発のRPGは大成功し、オマージュとしてファイナルファンタジーなども出て、RPGブームを築きました。
僕はRPG自体の面白さもありましたが、そのバランス調整の妙に非常に惹かれました。
ドラゴンクエストの、成長してパラメータが上がり、魔法を覚え、強い武器を手に入れ強くなっていく主人公の面白さに中毒になり、のめり込んでいきました。
最後の竜王に至っては何回も負けてしまい、最後に勝った時は音楽が止まり、光の玉が現れたというテキスト表示に全くこれまでになかった、呆然とした衝撃を受けました。
その、「とてつもない高い壁を超えた」という体験は今でも鮮明に覚えています。
その体験は、それまでの人生で一番の衝撃だったわけです。
これが僕をゲーム業界に行かせる最大のモチベーションになりました。
ドラクエが出てからも相変わらず僕はゲームセンターに通っていましたが、当時ゲームセンターは非常に難易度の高いゲームが多くありました。
それというのも、ゲームセンターがゲームで収益を上げるためには何回もプレイしてもらう必要があり、1回のプレイが短くなればなるほどよかったからです。
そんな中で、その高い難易度のゲームにドハマりし、壁を超えること自体に快楽を感じていました。
どんなに難しいゲームであっても挑戦し、全面クリアするという快感は僕を魅了しました。
覚えていなければクリアできないような難易度のゲームが理不尽だと感じつつも、はまっていたわけです。
難易度が高いことは人を惹きつけます。
僕はゲームに魅了されていましたが、中学校・高校の同級生たちは単純に趣味の一つでしかありませんでした。彼らにとって、ゲームは単なる趣味でした。
しかし、僕自身はもうその頃、ゲーム業界に行くためにはプログラミングを覚えなければいけない、ゲームデザインができなければいけないということで、スキルアップの必要性に駆られていました。
家は貧乏でしたが、父親にパソコンが欲しいと漏らしたところ、2週間後にはパソコンが家に届きました。
それからパソコンに熱中するようになりました。
最初はゲームなどをしていましたが、それではダメだと頭の中でわかっていたので、アセンブラから覚え始めました。
プログラミング自体は初めてだったので右往左往していましたし、その難しさに辟易していましたが、ここで挫折するわけにはいかないと思い、パソコン雑誌のバックナンバーなどを買い集めてプログラミングの情報収集をし、どうにかゲームらしきものが画面に出てくるようになりました。
高校卒業してからはコンピューターの専門学校に行きましたが、非常に堕落した生活を送っており、学校にもあまり行かず、友達の家に入り浸っていました。
先生から呼び出され、とにかく卒業だけはするようにと言われ、情報処理2種の資格を取り、ゲーム会社に就職するべく関東や関西に行っていましたが、親に交通費を渋られ、色々考えた挙句、「完成したゲーム」というポートフォリオを持っていくことにしました。
そのポートフォリオを作るのにバイトをしながら結局5年ほどかかりましたが、その間にプログラミングを習熟し、音楽を作ったり、ドット絵を描けるようになったりと、一人でゲームを作れる力を身につけていきました。
その頃のゲームセンターといえば、シューティングゲームばかりが熱い状態になっていて、ハイスコア争いもシューティングゲームでトップを争うくらい熱くなっていた覚えがあります。
当然、作るゲームもシューティングゲームになり、フルアセンブラで全画面のシューティングゲームを作り、それを就職の武器として、小さなゲームソフトハウスに就職することができました。
自分で作るゲームというのは非常に大変でした。
プログラミングも全部自分でやり、ドット絵も全部自分で描くとなると非常に時間がかかります。
ただ、その分、望んだシーンができた時は非常に感慨深いものがありました。
自分で作ったものというのは、ただ眺めているだけで、費やした時間やゲームに対する思いがふつふつと湧き上がってきて、軽い感動を覚えました。
ようやく作り上げたボスキャラが、一定のアルゴリズムでさまざまな攻撃を繰り返すさまを、安全地帯に移動して何十分も眺めていたものです。
当時、そのゲームはアップロードする場所もなく、niftyなどのパソコン通信のフォーラムのライブラリという場所があったのですが、そこにアップロードしてプレイヤーの反応をもらったりしていました。
その後、その自作ゲームにそっくりなゲームが、同じライブラリにアップロードされ、参考にされているということがわかって非常に驚いた覚えがあります。
自分のゲームが多くの人にプレイされて盛り上がっているという印象は、その後もアーチャーズというゲームで味わいましたが、勝手にコミュニティができあがり、そこでデータが解析され、攻略に盛り上がっている人たちを見るのは、作品が自分の手から離れていろんな場所で楽しまれているという、ある種クリエイターとしての夢を実現した状況でした。
それは僕が身につけたスキルが、ひとつの結晶となり、この世に体現した瞬間でした。
僕が現象としてそういう状況を見ることができたのは、非常に運が良かったなと思います。
そして、僕はこれ以上のブームを作り上げるべく、今もゲームを作っています。
ゲームは今非常に作りやすくなり、作っても大量に出てきて埋もれてしまう状態です。
ゲーム自体がすでにコモディティ、日用品になっているという状態です。
まだゲームの供給の少なかった時代はただリリースしただけで注目されていましたが、今はそうではありません。
何らかの工夫をして目立つ、個性的なものを作るなどしないと人の目につくことができません。
人の目につかないということは遊ばれないということなので、存在しないのと同じようなことになってしまいます。
要するに、今はゲームを売るためにマーケティング戦略やゲームが表に出るための戦略、それから広告なども考えていかないといけないわけです。
逆に言えば、広告を打つことによって狭くても狙った層に長く遊ばれるようなゲームを作れば、それだけで食べていけることができると思います。
よくあるようなゲームではなく、誰かが待ち望んでいたような、強く望まれるようなゲームを作ることが今は必要なんだと思います。
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