垂れ流しエンタメはどこに行き着くのか? 日用品と化したエンタメの中でクリエイターはなにをすべきなのか

どうも、新田です。

今回はふと思ったことを綴ります。

たまにはこういうのもいいでしょう(笑)。

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エンタメはサブスクリプションサービスによって、

・音楽
・映画
・漫画
・ゲーム

などは、もう延々と遊ぶことができるようになった。

これは結論から言うと、僕らはエンタメで退屈することがもうなくなったということであり、エンタメはコモディティ(日用品)化したということだ。

コモディティは紙コップやスナック菓子みたいにいつでも手に入る。

これはつまり平準化された価値に落とし込まれたということであり、あって当たり前で、いつでも手に入るという状態になったということだ。

これはなにを意味するのか?

サブスクで大量に提供されるエンタメは、価値が薄まり、いつでも楽しめる。

しかし、いつでも楽しめるということは今でなくてもいいわけで、逆に言えば別にあってもなくてもいい、どっちでも同じようなものに成り下がってしまった、ということでもある。

暇つぶしとして、大衆が消費していくスナックに、エンタメはなってしまった。

僕が中学1年生のとき、1983年ににファミコンは生まれ、一世を風靡した。

80年代は少年ジャンプの連載は、面白いものしかなかった。

90年代は、バンドブーム、小室ブームで音楽は最高潮だった。

ゲームも、90年代はこれ以上面白いものはないんじゃないかというもので溢れていた。

エンタメはそのとき、新しい体験で溢れており、明らかに輝いていた。

しかしなんでも手に入る今になり、エンタメから作品性を感じなくなった。

コモディティには哲学も思想もなく、ただ日用品としての役目があるのみである。

新しいものの新しい刺激は、人の人生を変えうる力があると思う。

少なくとも僕はゲームで人生が変わったし、その方向が定められた。

なぜエンタメに哲学や思想が必要なのかというと、別に一般的な事を言えば必ずしも必要じゃないわけです。

単に僕が人生を変えられた作品には「それが含まれていた」というだけなのです。

世界とはなんなのか、人とはなんなのか。

人はなぜ生まれ、どう生きて、どこに行こうとしているのか。

なぜその主人公の行動に、人は感動し、涙するのか。

それを強烈に考えさせられる作品が、人を変えうる。

そこには人の本質が含まれている。


そう思うからこそ、「人生を変える体験」を自分が作るものに入れ込みたいと思うわけです。

コモディティにはそれはないんですよ。

日々生き、システムの一部として働き、ビジネスをし、繰り返し、繰り返し、繰り返す。

ルーティーンに毎日忙殺され、暇なときには快楽を数珠つなぎにし、死ぬまでただ繰り返し、繰り返し、繰り返すだけでは、意味がない。

エンタメで感じた「僥倖」を再現することに、今のところ、自分の意味や価値を見出している今だから、どうしてもそこにこだわってしまうわけです。

そもそも意味のない自然世界というシステムの中で、僕らは生きている。

世界には意味はない。

ただ唯一、自分が作り出したものにだけ、意味が込められている。

理想の世界、理想の自分。

クリエイターは誰しも、朽ちて死屍累々のディストピアの中でサバイバルする強い自分を想像し、そこで勝利し、ユートピアを作り出す物語を構築する。

それは、DNAに封じ込められた「生きることの価値」が、そういう世界を作らせるのだと思うわけです。

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