生きる意味と価値とは? なぜ虚無が生まれるのか? そして生きることに満足するには?

どうも、ゲームを作ったりビジネスを作ったりしている新田です。

 

暇さえあれば「生きる意味とは?」「生きる価値とは?」なんて考えていませんか?

だとすればあなたは僕の仲間です。

ある日の昼過ぎ、一緒にランチしていたあるお客さんが言っていました。

「ビジネスうんぬんよりも、恋愛とか人間関係とか病気とか税金とか、生きること自体がたいへんで手が回らないんです。
それに、根本的に生きること自体、押し付けられているものに感じてしまうんです」

それはわかります。

お金を稼ぐ仕事(ビジネス)だけが人生ではなくて、恋愛だの年齢だの病気だの家族との人間関係だの、いろんな伏線が人生にはありますから。

それを全部同時進行させて進んでいるのが、僕らです。

「禍福は糾える縄の如し」(かふくはあざなえるなわのごとし)

と言いますが、人生はいいことも悪いことも縄のように一緒に紡がれています。

それをできるだけいいことを多くしようとみんな頑張っているし、考えている。

(実際ビジネスでお金から自由になればかなり「悪いこと」は減ります。いいことは自分次第です)

 

・・・結局のところ、生きる理由だの生きる意味だのの話は、一生つきまといます。

であれば、仮説でもいいので答えを出しておくに越したことはありません。

答えを出しておけばいちいち悩まずに先に進むことができるからです。

 

今回の記事を読めば、いちいち生きることに悩むことで余計な時間ー下手すると何年もの時間-を取られなくて済むようになるはずです。

ということで読み進めてください。

■結局のところ、「生きる意味」とは?

 

結局のところ、「生きる意味」は人間が自然から生まれ出たものとして考えると、自分で構築していなければなりません。

なぜなら、自然とは物理世界のサイクルであり、そこに意味はありません。

自然現象はただただ無目的に繰り返される現象に過ぎません。

人間という意識体が存在するからこそ、そこに「意味」が生じるわけです。

「意味」とはここでは「価値」「重要性」のことですが、人は自然という無意味から生まれた、無意味に意味を感じる存在です。

本能的に「死にたくない」から「生きる」ことに意味が生じます。

だから人生ってなんだ? と、世界や自然に問わないでください。

「人生に意味を問うてはいけない。逆にあなたがその意味を問われているのだから」

ということなのです。

あなたが、どういう人生にしたいか? なのです。

■なぜ意味が生じるのか?

 

本能が持つ欲求が、意味を生じさせています。

で、現代のように文明のおかげで生活が保証され「生きる」ことが当たり前になれば、「生きる価値」は徐々に薄れていってしまいます。

「死」が近いほど「生」は価値を大きくするからです。

だからゲームとか映画とか、仮想であれ「死」を身近に体験すると、ものすごいインパクトがあるわけです。

でも、死にかけた人ならわかりますが、実際の死はゲームどころの話じゃありません。

僕は一度精神的に死にそうになったことがありますが、これほど自分には生きたいという欲求があったのか、と思うほど本能が顔を出し、足掻こうとさせます。

でも今の時代、「死」は身近なものではなくなりました。

 

そんな「生きる価値」がよくわからなくなった時代に、つらいことや苦しいことがあると「生きるってなんだよ、なんのために生きるんだよ」と考えがちになってしまいます。

で、生活があまりに苦しいと、そもそも無意味な「生」に意味をつけることが難しくなってしまい、逆に「死」が救いになってしまうわけです。

そもそもの生命の「死にたくない」本能があるほかに、キリスト教や儒教の死生観が日本には広がっていて、「自殺は良くないこと」になっているので、どうにか抑えられてはいますが、それでも日本はほかの国に比べて生きづらいらしく、自殺率がナンバーワンとなっています。

日本は「我慢」「人に合わせる」「ひと目を気にする」風土があり、これが生きづらさを生み出しているのでしょう。

では、「生きる価値」がわからない時代に、どう「生きる価値」を感じるように人生を過ごせばいいんでしょうか?

■「生きる価値」はどこにあるか?

 

結局のところ、「楽しいことを増やす」しかありません。

人生に意味がないのであれば、勝手に意味づけするしか無いわけで、そんな中で最も生きるに値するのは「楽しく生きる」こと以外にありません。

人間の脳はシンプルに言えば「痛みを避け、快楽を手に入れろ」というOSがインストールされています。

快楽原則です。

これに従えば、「快楽」「楽しいこと」を追うのが一番生きるに値することになります。

じゃああなたにとっての「快楽」「楽しいこと」はなんなのでしょうか?

■虚無の理由

 

これは人それぞれ楽しいことの偏りがあり、一概には言えません。

・・・が、ほとんどの人はテレビだの漫画だの映画だののエンタメや、人と話をしたり交流したりの「快楽の数珠つなぎ」をしています。

しかしながら、これがずっと続けばいいのですが、人間は「慣れる」生き物なので、だんだんと虚しくなってきます。

快楽や楽しさをエスカレートさせていければいいのですが、限界があります。

するとどんなことにも快楽や楽しさを感じられなくなるわけです。

毎日同じことのルーティーンだ、と思うようになるのです。

これが現代人の抱えている「虚無」です。

では、この「虚無」はどうしたら無くすことができるのでしょうか?

■「夢」がない理由

 

しかし、人生の終わりまで続く快楽、楽しさがあります。

それが「夢」です。

「夢」は自ら叶えたいと思う壮大なチャレンジ、目標です。

「夢」はワクワクを作り出し、長期的に人を日々の作業に夢中にさせます。

 

・・・しかし「夢なんかない」「やりたいことなんかない」という人が大半です。

なぜでしょうか?

それは、単純に「試行回数」が足りないからです。

なんでもやる前から「これは俺の夢だ」なんてわかりはしません。

いろいろなことを試してみて、実際に取り組んでみて、自分が夢中になれる、寝食忘れて取り組めるとわかるのです。

「夢なんかない」という人は、面倒でやりたくないから、そう言っているに過ぎません。

テレビを見たりYouTubeをずっと見たり、ゲームをずっとするよりも、いろいろなことを試しましょう。

そうすることで、「快楽を数珠つなぎにする」ことから脱出し、一生やりがいを感じられる「やりたいこと」「夢」が見つかります。

 

「夢」がある人は「暇だ」ということがありません。

「夢」を叶えるためにはあらゆることに取り組む必要がありますし、自分自身のスキルを磨く必要もあります。

いろんな人に会い、教えを請うたり、協力を求める必要もあります。

人に応援してもらう必要もあります。

それこそ、夢を叶えるためにたくさんのことを試す必要があります。

 

「夢」を叶える過程で、否が応にも自分を成長させる必要があります。

知識を得て、経験を得て、自分を成長させることは、最も充足感のあることです。

成長した自分は、誰にも取り上げられることはありません。

自分で自分に満足できる。

そのことは、自信に満ち、常に落ち着いたあなたを作り上げます。

しかし、人はなかなか自分を成長させることができないのも事実です。

それはなぜなのでしょうか?

■活動範囲を広げる

 

人には「ホメオスタシス」、恒常性維持機能というものがあり、なるべく今の状況を維持しようと努めるようにできています。

安全な領域にいたほうが、生命を維持できる可能性が高いからです。

しかし、今は生命を維持するのに苦労する時代ではないわけです。

より充実した人生を送るには、このホメオスタシスに抗(あらが)い、新しい場所に飛び出していく必要があります。

 

誤解を恐れずに言うなら、「不安な領域」にいるほうが、人は成長するのです。

なぜなら、不安を解消しようといろいろ動くことになるからです。

その領域が不安でなくなったとき、あなたは活動範囲を広げたことになります。

より世界に慣れ、恐れるものがなくなったとき、あなたは誇れる自分を持っているに違いありません。

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